わたしらしく生きる、あなたらしく生きる

コンプレックス過多の元引きこもりネガティブヲタクが過去の経験を元にありのままの自分を受け入れられるようになった考え方や出来事を公開?

ジャッジすることに意味はない



例えば
「こんなことするなんて酷い人だな〜」
とか
「最低な奴だな〜」
とか
「くだらね〜バカじゃないの?」
とか
「ああいうのは良くないよね〜」
とか
「だからあの人は成功できないんだな〜」
とか
「これくらいのこと出来ないなんてダメだな〜」
とか。

誰かを見て、こんな風に思うことってあるかな?
わたしは今でもたまにあるんだな〜。

あとは
「この人はこんなことをしているから素晴らしいね〜」
とか
「こんなこと出来るなんてあの人はすごい人だね〜」
とか
「いいことして、さすがだな〜」
とか
「偉いよね〜」
とか
「やっぱこれが一番だよね〜」
とか。

これはみんな思うこと、きっとあるんじゃないかな。

主観では、どうしても物事を自分の中にある「善悪」で判断してしまう。

じゃあその善悪は、なにを基にして決めているのか。

法律?
社会のルール?
親の言葉?
学校の先生の教え?
世間一般の常識?
世の中の平均的な数値?

だけど良く考えるとね

国が変われば法律が変わる。
スポーツが変わればルールが変わる。
家庭が変われば躾が変わる。
先生が変われば教えが変わる。
時代が変われば常識が変わる。
場所が変われば文化が変わる。
付き合う人が変われば基準が変わる。

そしてわたしたちはきっと
その時その時で立場や役割が変わるし、言動や性格すら変わっているんだと思う。

ある時代では英雄と呼ばれた人は、ある時代では人殺しとして牢獄に入る。
ある場所で大悪党として名を馳せていた人は、別の場所では救世主と呼ばれている。
世間一般では出来損ないだと思われていた人が、ある分野で活躍して天才と呼ばれるようになる。
自分にとっては世界一素敵だと思っている彼氏が、ある人にとってはあり得ないダメ男だなんてこともある。笑

人間は多面的な生き物。

『今日この場面ではこんな自分で立ち居振る舞おう。』
『この人の前ではこんな自分でいよう。』

意識しなくてもきっと勝手にそんな風になっていたりすると思う。

だから今目の前にいる人や、起こった出来事に対して、いちいち善悪で判断しなくていいんだよね。

今目の前にいる人や出来事には、わたしには知りようのない経緯や事情が絶対にある。人それぞれ感じ方だって違う。生い立ち、知識、考え方、誰1人として同じなんてことは絶対にない。

だから、それをいちいち主観でジャッジしたところで少しも意味はないんだよね。

もしも自分が善意でやったことでも、相手に迷惑がられたりすることはざらにあるし、逆に「あちゃーやっちまった!」ってことをしても逆に感謝された経験ってない?

つまり、みんなそれぞれ違うってこと。

人や起こった出来事は変えることができない。だけど、自分は変われるし、捉え方や考え方は変えることができる。

全ては自分次第。
見方を変えるだけで、目の前に広がる世界は一変したりする。

人は、身体的特徴や知識、考え方や育ち、感じ方や表現の仕方、どれ一つをとっても同じことはない。これは絶対。
似ているところがある人はいても、全く同じなんてことはない。

だから自分と違うことを、考える余地もないくらい完全に悪いと決めつけたり、素晴らしいと褒めそやして崇め奉ったりしなくていい。

ジャッジするから苦しくなる。
ジャッジするから嫉ましくなる。
ジャッジするから戦いが起こる。
ジャッジするから自分を責める。

目に映るものや言われたこと、人や自分の行いによって起きた出来事は、ただそのまま受け止めればいい。
そしてその出来事によって生じた感情を信じればいい。

「なんかこれ、なんとなく好きだな〜」
とか
「心地いいなぁ〜」
とか
「ときめくなぁ〜」
とかね!

逆に
「これなんとなく嫌だわ〜」
とか
「なんか違和感かんじるな〜」
とか
「あれ、全然心動かないなぁ〜」
なんて思うこともきっとある。

それでいいし、そのままの心の声を大切にしていいと思うんだ。

これは善で、これは悪。
だから正しいし、だから間違ってる。

そうやって頭で考えちゃうと、心の声がどんどん遠のいて、自分が本当に求めるものとかやりたいことがわからなくなるからね。

正解はないよ。
不正解もないよ。

感じるままに生きていいんだよ。
自分の心の声に従って生きていいんだよ。

わたしもまだまだ善悪で判断しちゃうことはたくさんあるからね。
日々そう思いながら、修業中です(`・ω・´)

2016年4月24日
Rika